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医療法人社団 成風会の本院 高橋クリニックは日曜も診療します。分院にタカハシクリニック(松戸)とカムクリニック(松戸)があります。
     電話でのお問い合わせはTEL.03-3854-3031
〒123-0841 東京都足立区西新井15-15-9

診療案内medical info および 医師としての家系ルーツ

診療内容

内科・外科・胃腸科・循環器科・リハビリテーション科

診察時間 日曜も午前診療行います。(祝日休診)

 
午前09:00~12:30 /  /
午後15:00~18:30 / /  /  /

日曜日も午前中 診療行っております。

  • 閑話休題 高橋英毅日出雄・薫 医師としてのルーツ……
  • 母の叔父 
  • 黒須巳之吉物語
  • 明治18年千葉県香取郡で大工黒須重次郎の長男として生まれる。大正元年 旧制第一高等学校より東京帝国大学医学部卒業 東京慈恵会医科大学第二代学長 金杉英五郎先生の千代田区駿河台の金杉病院 奉職 大正2年 金杉病院よりスイス バーゼル大学医学部ジーベルマン耳鼻咽喉科教授教室に留学 大正4年 帰国 金杉病院 副院長 大正10年 東京慈恵会医科大学 東京病院 耳鼻咽喉科部長 大正12年関東大震災 千代田区永田町自宅焼失 東京慈恵会医科大学東京病院を退職し、千代田区永田町 旧自宅跡に耳鼻科診療所開設 昭和3年 妻 貞子没 昭和10年 スクリバ・トモエと再婚 昭和15年 東京慈恵会医科大学より学位論文「日本人側頭骨錐体尖蜂窩の臨床解剖学的研究」にて医学博士授与 昭和19年 戦災のため 永田町の病院を閉鎖し神奈川県湯河原町に疎開 昭和21年 湯河原にて温泉旅館楽山荘を改築し黒須耳鼻咽喉科病院開設 昭和23年 湯河原駅前に病院を移転 昭和25年 医療法人財団葵会設立 昭和26年 港区六本木に分院開設 昭和32年第6回国際耳鼻咽喉科学会出席(米国 ワシントン) 汎太平洋外科学会会員 日本気管食道科学会特別会員 日本耳鼻科学会終身会員 日本扁桃研究会名誉会員 昭和35年国際ロータリー東京南クラブ会員 昭和44年 日本医師会最高優功賞受賞 昭和47年11月17日没 黒須巳之吉先生を太い根を有する木の幹とし黒須一族では多くの医師が誕生しており高橋英毅・日出雄・薫3人もその枝葉におります。
  • 黒須巳之吉 業績集
  • 医学学術論文 日本人側頭骨錘體尖蜂窠ノ臨床解剖學的研究Klinisch-anatomische untersuchung der pyramidenspitzenzellen des schläfenbeins bei Japanern. 耳鼻咽喉科臨床會, 1938.6
  • ほぼ100年前の産業医の役割の重要性が叫ばれるはるか前に、労働環境の改善を訴え騒音難聴の発生に警告を与えた新聞記事「労働問題の一懸案たる音と耳の関係 鉄道従業員や鉄板工場から聴力減弱や聾者が出る事実 何故に之を軽視する」の一文を中外商業新聞に載せております。新聞記事文庫 衛生保健(3-010)  中外商業新報 1919.8.9(大正8)
  • 翻訳 「福島県史22 人物」福島県 P273 クルト・マイスナー原著「シュネール小伝」黒須巳之吉訳 Schnell Henry  オランダ人 会津藩軍事顧問 1863(分級年)ころプロシア領事館に勤務1867年会津藩に迎いられ、藩主松平容保より刀と衣服を拝領 平松武兵衛と称して会津若松に住む。戊辰戦争の際は、奥羽越列藩同盟側として西軍と戦い、新潟で弟エドワードと武器・弾薬購入を周旋1869(明治2年)邦人を伴い渡米、カリフォルニアにワカマツ・コロニーを建設するが失敗した
  • スイスバーゼル大学ジーベンマン先生追悼会記録。
  • 東京 6月8日 1928年

    尊敬するジーベンマン教授とその門下生たちが本日ここ東京にて

    耳鼻咽喉科学の偉大な研究者あり恩師である先生を追悼するために集った。

    そして、先生の忘れがたきご逝去に対して、敬意を表する証しとして

    各自署名した小冊子をご家族の許可を得て、お届けいたします。

    黒須巳之吉先生

    故ジーベンマン先生追悼会

    出席者一同記念署名


    画面の領域

    スイス留学と日本での業績の栄誉

     

    4月8日ジーベンマン教授がバーゼルにてご逝去され、生前の思い出に対しての敬意を表し、東京の学士会館において、東京帝国大学耳鼻咽喉科教授の増田先生にご出席を頂き

    4月6日6時30分夕刻、追悼式典が厳粛に挙行された。

    絹の幕で覆われた日本画を背後に広い額縁、約50本の純白のナデシコの花と深紅の薔薇に覆われた肖像画が立て掛けてある。この式典会場内反体側に大阪や名古屋から出席した日本耳鼻咽喉科学会の学者や同胞の先生がいらした。更にこの式典には多くの行事が盛り込まれていた。

    故人となった先生の精神を受け継ぐ後援者として増田教授は遺影の前で丁寧にお辞儀し、畏敬の念と追悼文を捧げた。ジーベンマン教授の業績集が演壇の周りに集められていた。

    研究者として教育者そして学会の創設者として、ジ-ベンマン先生に賞賛の言葉をこの

    指導者に送った。ジーベンマン先生は亡くなるまでの勉学課程と学問的履歴の多くを残された。

    特に耳鼻科領域の三角錐迷路ラビリントス内の解剖に関する見識ある多くの業績、種々

    多岐にわたる名誉ある言葉、今日のヨーロッパと日本の指導者の立場として、ジーベンマン先生の育成した子弟を育て上げていった。多くの列挙した業績の中で大阪の浅井教授はジ-ベンマンの偉大な功績として聾唖の研究を掲げている。浅井先生はジーベンマン先生の元ともに長く日本の留学生として共に熱心に研究した。金杉教授は岡田教授と共に日本の耳鼻咽喉科学の先駆者として役割りをし、学会の重要な口演ときれいなノートを発表した。日本で言い伝えられる孔子の格言を引き合いに出している、:上司の言葉、更に年上の先達者やその教育者の言動を決して忘れるなと。金杉教授は出版物によって明らかにしている、深く掘り下げた義務感の回想が可能となる。此れはジーベンマン教授にも同様に感じていた。しかも、既に公表している。手術手技の見識の称賛に人格者としての崇拝の念がある。

    東京のパラビチーニ医師は純粋に心の底から感謝を表明して、追悼会に参加したスイス人フルトヴェングラー医師と追悼会の取材した報告者我々の国の有名な同国人であり、同胞によって日本の耳鼻咽喉科学会を謙虚に主導された。

    岡田教授は明瞭に感謝の辞を述べておられる。特に日本のジーベンマン先生の門下生たちにとって、故人によって数多く育成された弟子たちは日本でも偉大で重要な業績を成している。

    黒須医師は確実にスイス流派の専門家として業務をこなしている。そして酒井教授は韓国の京城に派遣されている。

    引き続きしめやかで質素な晩餐会に移り、佐藤教授、浅井教授、名古屋から駆け付けた中村先生、黒須先生と津田先生達が招集された。全員ジーベンマン先生の門下生で、個人的な回想や先生の講義、診療、病院内で仕事などともにいた時間などが話し合われた。

    この感謝の言葉はジーベンマン先生の日本の門下生達たちの生涯にわたる仕事との関わりだけでなく、真に人間としての長く尊敬の念と感謝の気持ちを持っていることの間違いなく現れであるろう。今宵の参加者は互いに先駆者のそれぞれ短くも簡潔な言葉での報告に感銘した。恒久な価値ある我が偉大なる国の同胞であるジーベンマン先生のための賛同された追悼会は互いに感謝の連帯感とはるか極東アジアの門下生を通じて先生への敬意である。

    おそらく他の国の人々で成しえないことであろう。これは故人ジーベンマン教授の参加者の皆様や鼻咽喉科学会への証しとなるであろう。

     

    東京にて 6月10日  1928年

            H.E.トーマン医師 東京

    訳 高橋 日出雄 2018,6,26

  • 黒須巳之吉博士と森島久代先生

    日本と米国の麻酔科学会の重鎮で米国コロンビア大学麻酔科名誉教授の森島久代先生は

    1959年米国に留学される際に、ドイツとスイスの大学に留学経験のある耳鼻咽喉科医の黒須巳之吉先生からアメリカで研究、臨床研修を強く勧められたと述べておられました。



    黒須巳之吉先生の石碑 千葉県香取郡南玉造 龍華寺境内

    平成29年4月

    母と薫先生(内科医)と記念写真 平成元年夏 
     医局にて


        母と日出雄、薫(内科医)
    記念
    写真 平成元年夏 

     医局にて

      
         


    外科医
    Dr.Hideo日出雄
    Dr.Hidek英毅i
    内科医
    Dr.Kaoru薫

     


    日本の近代医学

    明治時代お雇い外国人医師

     

     

    Ervin Von Baelz

    内科学       ベルツ―――――荒井はつ(花)

     

             Julius Karl Scriba

    外科学       スクリバーーーー神谷ヤス

                    I 

                    I  

    長男フリッツ・スクリバ(病死) 次男エミール・スクリバ(病死) 三男ヘンリー・スクリバ

                      I             

                      I  岩立エミ子       須栗場

                 スクリバ・トモエ

                    II

                    II(再婚)

                黒須巳之吉(耳鼻科医) 

                 I

    I     

    貞子(病死)―黒須正夫(耳鼻科医)

      黒須吉夫(麻酔科医)――黒須 譲(内科医)

     

            黒須林蔵―― 黒須房男(外科医)――黒須光男(外科医)

              旧姓 黒須ゆきー髙橋英毅(外科医)優子(歯科医)

                  ―髙橋日出雄(外科医)高橋昭則(内科医)

                   ―髙橋 薫(内科医)

     

               黒須七郎(耳鼻科医


    森島久代先生の御祖父織田先生の石碑 千葉県成田山

    森島久代先生は長くコロンビア大学にて産科麻酔学の臨床、研究、教育に尽力され、その発展に大いに貢献されました。それによって、日本政府より瑞宝中綬章を受章されました。また、2012年12月8日 第116回日本産科麻酔学会学術集会で特別講演に招聘され、その帰りに当院に直接電話をかけて下さり、黒須巳之吉先生の人柄や業績などもお伺いいたました。

  • 母の叔父黒須巳之吉先生の座右の銘荘子斎物論胡蝶の夢

    明治生まれの黒須巳之吉先生は医師の患者に対する心得を述べたものである。この銘を読んで幕末から明治時代の移行期、日本で近代西洋医学教育の父を言われるポンぺを思い浮かべる。

    ヨハネス・レイデイウス・カタリヌス・ポンぺ・ファン・メーデルフォールト(Johannes

    Lijdius Catharinus Pompe van Meedervoort18291908

    1857年、幕末時代に来日し、長崎で初めて基礎科学から組織的にオランダ医学の教育を行った。長崎大学医学部の前身である医学伝習所を直弟子の松本良順と共に作った。ポンぺは医学全般を一人で基礎から教え、そのカリキュラムはオランダユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ教育方法を応用した。近代西洋医学教育の父といわれる所以である。松本良順とその弟子司馬凌海のオランダ語通訳がポンぺの講義の理解、内容伝達には大きな功績があった。ポンぺの診療する態度は患者の身分に関わらず、貧乏人は無料で診察し、武士、町人、日本人、西洋人の区別なく平等に行った。江戸末期の封建社会制度の中、門人たちは医師にとって何ら差別なく、貧富、上下の階級差もなく、ただ病人があるだけと養生所で身をもって教えられた。このことは黒須巳之吉先生の“醫の任たるところ、ただ病を察するのみ、富貴を看るなかれ、貴賤を見るなかれ、唯、病を察することのみ”の書と、医療の信条は互いに相違するものではないと思われる。長崎大学医学部の校是となっているポンぺの言葉がある。「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職業を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものでなく、病める人のものである。もし、それを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というもので、醫の神髄ともいえるポンぺの言動は門弟たちに深く心に刻み込まれたという。そこで、長崎の軍医ポンぺのもと、蘭方医学を学んだ順天堂大学創始者佐藤泰然の実子松本良順、千葉九十九里出身の関寛斎、佐渡出身の司馬凌海らが登場する、司馬遼太郎の長編歴史小説―“胡蝶の夢”を思い出した。

    その中で特に興味を引く人物が島倉伊之助すなわち、後の司馬凌海(1839-1879)である。幼少時に伊之助を薫陶した祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て、13歳で松本良順のもと

    オランダ語を学んだ。凌海は語学の稀にみる天才といわれ、獨、英、蘭、仏、露、中国語の6か国に通じて、明治4年に独逸文典字類、明治5年には日本初といわれるドイツ語辞典「和洋独逸辞典」を出版した。ポンぺの医学で学び、類まれなる語学の才能を生かして、ポンぺの通訳を務めたり、その後明治初期の西洋医学はドイツ医学に傾注して、政府お雇い外国人のドイツ人医学者ミューラーLeopold MullerやホフマンTheodor Hofmannが教育に従事する際の通訳の重要な役割りも果たした。また、東京に呼ばれ医学校で英国人W,ウイリスWilliam Willisの通訳するほかに語学塾春風社を開き、学生達にドイツ語を指導した。明治9年、司馬はローレンツの通訳兼医学教師として公立医学所、のち愛知医学校、愛知県立医学校、名古屋医科大学、現名古屋大学医学部の教授に就任している。医学校で外国人教師を招聘して、凌海以外に誰も通訳できる者がいなく、酒好きの凌海が二日酔いで欠席すると自然休講となったとか、破天荒な生活や反社会的な行動などと、ドイツ人ミュレルやホフマンと直接会話した時、あまりに上手にドイツ語を話すので、あなたはドイツに何年いましたかときかれ、実際に外国に行ったことなかったなどいろいろな逸話がのこっている。通訳の際、日本語に翻訳出来ない言語は漢文に精通していたので即座に造語した。現在、我々が耳にする蛋白質Eiweiss,十二指腸Zwolffingerdarmなどがある。しかし、明治12年、肺結核に罹り、熱海で転地静養していたが、東京に戻る途中、高熱でうなされ、籠の中で意識が朦朧をする状態で、凌海は若い時に読んだ荘子の“胡蝶の夢”を思い出し、俺は蝶だと大声で叫び、神奈川県戸塚で寂しく死んでいったという。彼は享年若干40歳だった。ともかくも、短い、密度の濃い生涯であったといえる。

    後年、彼の天才的な能力と言動に奔放不磊、奇異なところがあり、サヴァン症候群かアスペルガー症候群ではないかとも言われています。

    胡蝶の夢

     

    荘子・斎物論

     

     

    原文

    昔者、荘周夢為胡蝶。

    栩栩然胡蝶也。

    自喩適志与。不知周也。

    俄然覚遽遽然周也。

    不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢周与。

    周与胡蝶則必有分牟

    此之謂物化。

     

    いつのことだろうか、私荘周は夢の中で蝶になりました。

    それはひらひら舞う蝶でした。その楽しみに酔いしれ、我を忘れる程でした。

    しかし、ふと目を覚ました私はやはり元の私でした。

    でも、荘周が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘周になったのでしょうか。

    私は蝶なのか、人間なのか分からなくなってしまいました。

    荘周と蝶との間には必ず区別が有るはずである。

    彼はいわゆる仮の姿で、本質は変わらないのではないか。

     

    夢の中と現実がわからなくなることがある。どちらが本当の自分なのか。

    自分とは何なのか。物の本質とは何なのか。

    夢と現実との区別が明瞭でない、自分と物との区別のつかない物我一体の境地

    物化とは、本質的に一つである物が様々に変化を繰り返す、万物は変化を繰り返す

    自分も蝶もその変化のうちに過ぎない、本来は区別などないと荘子は考える。

    胡蝶の夢百年目  人生のはかない喩え 短く空しい人の夢

    荘子 中国戦国時代の思想家 「斎物論」より

     

    小生が大学医学部を卒業した1972年春、大学院外科学教室に入学するため、神奈川県湯河原町の黒須病院黒須巳之吉先生に会いにゆき、紹介状をもらって、東京慈恵会医科大学の阿部学長との面会に新橋へ出かけたのを思い出します。この年の秋、黒須巳之吉先生は湯河原町にて88才老衰で他界されました。

     

    野外の蝶採集(長野県)

    オオムラサキ山梨県 2018,07,03


     

    荘子の斉物論

    中国戦国時代の宋(現代の河南省)に生まれた思想家、道教の始祖の一人とされた

    荘子(荘周)が著述した斉物論の中の一遍の胡蝶の夢という詩

     

    原文の書き下し文にすると

    昔者むかし、荘周そうしゅうは夢で胡蝶こちょうと為なる。栩栩然くくぜんとして

    胡蝶なり。自ら喩たのしみて志に適かなえるかな。周たるを知らざるなり。俄然がぜん

    として覚さむれば、則すなわち遽遽然きょきょぜんとして周なり。知らず、周の夢に

    胡蝶と為なれるか、胡蝶の夢に周と為なれるかを。周と胡蝶とは、則すなわち必ず

    分有り。此れを之これ物化ぶっかと謂いう。

     

    現代文の訳

    いつのことたっただろうか、私荘周は夢の中で蝶になりました。それは、ひらひらと

    自由に舞う蝶でした。その愉しみに酔いしれ、我を忘れる程でした。しかし、

    ふと目を覚ました私は、ああやっぱり元の自分でした。でも、荘周が夢の中で蝶なったのか、

    それとも蝶が夢の中で荘周になったのでしょうか。私が蝶なのか、人間なのか、分からなく

    なってしまいました。周と蝶との間には必ず区別が有るはずである。

    これはいわゆる単なる仮の姿であるのだ。

     

    漢詩の熟語意味

    栩栩然  ひらひらと飛ぶ様子

    適志   気持ちがのびのびとする

    俄然   突然

    遽遽然  びっくり驚く様子

    与    疑問の意

    分    区別

    物化   万物の変化 本質が一つである物がさまざまに変化すること 万物は変化を

         繰り返すが、本来は区別などないという考え

    荘子の斉物論の胡蝶の夢の物化について

    物化 広辞苑より 1){荘子}物が変化する事

             2) 天命を終えて死ぬこと

    死ぬ意味で、現代でも物故という文字も使われている

    すべての物は生死流転のなかで、常に変化し続ける、夢のなかの

    蝶も自分も本物で、その本質は同じである。夢と現実と判然としない世界。

    宇宙のすべては変化するものである。広い視野に立ったCosmologyの原理に一致する

    荘周も蝶も真実であり、己で、本質は同じであるが、物質として区別があるだけである。

    無為自然の境地、一切斎同の荘子の哲学的な考え

    荘周の説話で、斉物論とは 万物の全て斎(等しい)とする論理で、是と非、生と死、

    貴と賤、夢と現実との対立を論ずるより、いずれも肯定して受け入れ、己が満足して生きて行けばよい  万物斎同の世界で遊ぶ

    毀誉褒貶きよほうへん どんな人生でも起こり得る、褒められ、人に持ち上げられる自分もいれば、謗り貶される自分がいて、どちらが本当の自分であるかでなく、どちらの自分も本質的には同じである、

     

    逍遙遊の世界

    胡蝶の夢は百年目は晩年になって自分の人生を振り返ってみて、夢のようであったと思うこと

     

    故事

    人生とはまさに胡蝶の夢で、華々しい栄光に輝いた後、彼はすぐに亡くなった。

    Our life is but a span.

    荘子の思想

    国の政治の知識や商売の知識など、世俗の知識にはとらわれるべきでないという考え

    老子の思想に近いーーー老荘思想

     

    思想哲学

    すべてが虚無、人生ははかないという意味

    また、物の変化は表面で現れたもので、形の上で違いがあるが、その本質、己はには

    変わりない、夢と現実、真実と虚ろの対立を論ずるより、いま生きている世界が本当の

    世界で、素直に受け入れ、それを自由に生きて、楽しむべきであるという。

    中国ではこの胡蝶の夢は{荘周夢蝶}という四字熟語で表しているようです。

    いろいろな意味に表現して、例えれば、人生ははかなく夢のようだという意味や悠々自適の人生に憧れる意味などのようです。

    胡蝶の夢“ 司馬遼太郎の歴史小説

    江戸幕府の倒壊と戊辰戦争の軍医松本良順、銚子出身で順天堂で学んだ関寛斎、抜群の記憶力と

    語学学習の天才的な能力、非社会性の人間関係の持ち主で司馬凌海などの登場人物像が克明に描写された連載小説

    胡蝶の夢 (歴史小説)新潮社   司馬遼太郎

    第一巻 P183より参照

     

    医者は、人相を見てはいけない。

    「これは、医者は患者の善悪、貧富を見てはいけないという意味。」

     

    まだ未熟な島倉伊之助(司馬凌海)は恩師で、御医師いわゆる将軍家や大名に仕える医官の松本良順に、自分の実の父である佐藤泰然が開いている佐倉、順天堂を勧められた。蘭方医学を学ぶなら佐倉に行けと言われていた。そこは下総佐倉の城下にある蘭方医学塾「順天堂」で、松本良甫の養子となり松本良順となった彼の実父の佐藤泰然がひとりの手で開講した順天堂という塾であった。その良順が簡潔に佐藤泰然の人物像を書いている。泰然は好奇心に駆られ、若干25歳で江戸の蘭方医家の門に入り、のち、長崎にいってオランダ語を学び、そこで蘭方外科を身に着けた。その後、薬研堀で一時開業していたが、佐倉の第5代藩主堀田正睦の厚遇を受け、佐倉で蘭方医学を始める事となる。堀田正睦は幕府で2回老中を務めて、対外問題や西洋の事情に詳しい人物だった。また、手塚律蔵を招いて、日本で初めて英語を体系的に研究始めさせた。佐倉順天堂の私立蘭方外科兼病院は、当時大阪の緒方洪庵塾(適塾)と並んで、日本の東西2大塾となっていた。佐倉順天堂は当時の外科で南蛮流、紅毛流と異なり、乳がん手術、卵巣嚢腫、睾丸腫瘍の摘出を無麻酔行っていたが、以前から行われた華岡流外科のような麻酔を使用する事はなかった。このような順天堂の塾に、良順から勧められた伊之助は順天堂の門をたたいた。玄関脇の書生山内六三郎がまず面会した。六三郎は予め伊之助の噂、稀な記憶力とオランダ語の読解力は師匠の良順より抜群優秀であると聞いていた。次に塾頭の外科医術の天才をいわれた山口舜海(のち佐藤尚中)に会った。舜海は泰然のもとで蘭方医学を学んで、塾頭を務めていた。この面会した際、舜海が伊之助にいった言葉が上記の“医者は人相を見てはいけない”という言葉である。舜海は毎朝、順天堂で外科の原書すなわちセリウスの外科書を講義していた。泰然先生もこの書を読んでいくつもの手術を行っていた。ただし、語学重視の塾であった適塾と違い、順天堂は原書を読むより、治療に巧みになることを重視した。セリウスの外科書19世紀の前半独逸外科学会の中心的な医師セリウス(Maxilliam Joseph von Chelius 1794-1876)の著者で、いわゆる セリウス外科書(Handbuch der Chirurgie, zum Gebrauch bei seinen Vorlesungen)は1857年まで8版を重ね11か国語に翻訳され、ドイツで広く流布した教科書であった。わが国ではその蘭訳本―Leerbook der Heilkunde naar dezeutigabe  vertaalden vermeerderd door.Pool GJ, Amsterdam1830-1832が佐藤舜海(後の尚中)らにより翻訳され、瘍学全書として知られる。セリウスは1819年以後、母校のハイデルベルグ大医学部で外科の正教授を務め、眼科教室を創設して、その名声をおおいに高ら占めた。眼科学にもその著 Handbuch der Augenheilkunde “2巻が1839~Stuttgartでも出版されている。

    大阪の蘭学教育塾 「適塾」

    緒方洪庵はつねに医戒をかかげて塾生に諭している。

     

    医の世に生活するは人の為のみ。己がためにあらず。病者に対しては、唯病者を

    視るべし。貴賤貧富を顧みることなかれ。

     

    ポンぺも同じ趣旨の言葉を述べているが、洪庵は蘭医フーフェランドの思想と言葉から

    出て、ポンペも母国ユトレヒト大学で医の倫理教育を受けているにちがいない。

    司馬遼太郎 胡蝶の夢2巻p181参照

     


    Enchiridion Medicum

    現代教養文庫 医戒 幕末の西欧医学思想

    杉本 つとむ氏解説  社会思想社より参照

     

    Christoph Wilhelm Hufeland 1762-1836

    ドイツ人医師

    1780イエナ大学入学

    1781 ゲッテイゲン大学編入

    Makrobiotik長生術を出版

    1810 ベルリン大学病理学Pathologie教授

    1833 フーヘランド慈善財団設立

    1836 Enchiridion medicum出版

    日本では杉田成卿や緒方洪庵らにより翻訳された。

    緒方洪庵の「扶氏経験遺訓」として訳された。

    杉田成卿は「解体新書」翻訳出版で有名な杉田玄白の孫にあたる。

     

    醫戒

    医師としての心得

    医術と医師の使命 医師と行動

    医学手引書、医学必携

    Handbook

    Enchiridion 語源

    日本語訳 手引書、簡潔な参考書、教科書、教本、

    ある主題あるいは場所に関する特定の情報を与える簡潔な参考図書

    (a concise reference book)

    en-   cheir   手の意味   ion idion-ラテン語の名詞語尾

          kheir  ghes  印欧語根 hand手の意味  surgery  surgeon

       cheiro-

     

     

     

ドイツ国立図書館    Deutsche Nationalbibliothek    GHD-Nummer 1102927651

ヘッセン公国人物伝 Hessische Biografie

Scriba, Julius Karl  (ID-7522)

6月5日、1848 ラインハイム 生誕

1 3日、1905 東京 没 プロテスタント

外科教師、外科医、植物学者、教授

職歴

1870-71 1年間軍医補として軍務に服す

1874    ハイデルベルグ大学医学部医師 ヴィンセント ツエルニー教授の助手

1879    ブライスゴのフライブルグ大学で教授資格を取得

/6,1881-1887 東京帝国大学医学部にて教授 外科、皮膚科、眼科、婦人科

1889-1901 東京帝国大学医学部教授職を更新

1905    聖路加病院 外科主任

1893-   ドイツ帝国日本公使館付専任医師 明治天皇の医療アドバイザー

日本における近代西洋医学の基礎を創るため、内科医ベルツ博士と共に貢献した

家族 父 ScribaEmil 1814-1886 薬剤師 ラインハイム 祖父も薬剤師

   母 Noack, Sophia 1820-1883

妻 神谷 ヤス 1228日、1865―12月3日、1982 武士神谷則貞の娘

 長女 宮下 エマ 1883旧姓スクリバ1899 Luye Miyaschitaと結婚 養蚕業

長男 Scriba ,Fritz 1885-1927 日本医大でドイツ語教師、昆虫学者

次男 ScribaEmil 1891ー1933, 東京で商社マン

3男 ScribaHeinrich 1897

J.K. Scribaの学歴、履歴

(ドイツ)

Deutsch-land

 

Chronologie

Werdengang(Career)

経歴

師事

Lehrer

 

1869

Universitat Heidelberg

ハイデルベルグ大学入学

1869

外科医 グスタフ、ジモン

医学、植物学

軍陣医学、形成医学、婦人科学

1870-1871

普仏戦争 軍医補

腎臓手術

 

1874

卒論ー脊椎彎曲症の治療法で

Doktor

医師資格

1874

ベルリン

ベルナルド、ランゲンベック教授

1875

Universitat Freiburg

1871

ヴィンセント、ツエルニー教授

フライブルグ大学

ウィーン大学で

二等助手

1871

フライブルグ大学で教授資格

一等助手

Assistant Arzt

犬の胃全摘出手術

講師

Doent

1876

ヘルマン、マアス教授

1877

ヴィンセント、ツエルニー教授

ハイデルベルグ大学へ転任

1879

1880

教授資格

Habilitation

論文 脂肪栓塞論

Untersuchungen uber die Fettembolie

1881

Unuversitat]in Tokio

東京帝国大学医学部外科Lektor

医学部外科教授

Lektor

 

ドイツでのスクリバ博士の外科教授Vincenz Czerny

Vincenz Czerny教授 from Wikipedia

u  ツエルニー教授の伝記で若い時は生物学が好きで、特に蝶Butterflyが好きだったと記載あり。

u  (1842-1916)

u  プラハとウィーンで医学を学ぶ

u  1868 外科医師となり

u  テオドール ビルロートの元で助手

u  1871 ウィーンで助教授

u  1871 フライブルグ大学で外科教授

u  1877 ハイデルベルグ大学教授



 

スクリバ文庫

日本医科大学付属図書館 (非公開展示物)

スクリバ博士の長男フリッツが日本医科大学でドイツ語教師をしていた事から

家族より図書館に寄贈された。

大学教師時代の外科書に個人のメモ書き筆跡

2017,1,28撮影
ユリウスヘッセン州立博物館ドイツ.pptx へのリンク


古書

Dosch,Scribaの植物書籍

Julius Karl Scriba(1848-1905)

と植物ドイツ語書籍発行共著

Ludwig Karl Friedrich Dosch(1.Mai 1827~14,August 1908)

 

Eine erste Auflage 1873

Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthumes Hessen. und der angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg, Mannheim und Kreuznach.-H.L.Schlapp,Darmstadt. XLII+640 Seiten

 

Flora der Blüten-

 

Blüte (単数)------Blüten複数形   ̈blossum樹木の花

   Blüten blätter  花びら(複)

 

Die zweite Auflage 1878

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden  Gebiete fur Gymnasien ,Realschulen und Seminarien.-H.L.Schulapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten

 

Die dritte Auflage 1887

Bearbeitete L.Dosch alleine,  Co-Autor J.Scriba 1881 in Japan

 

Apotheker

薬剤師の家系のSchultz , DoschScriba 著作の植物書籍

Friedrich Wilhelm Schultz
1804 Zweibrucken-
1876 Weissenburg im Elsass
Phamaceut, Botanischer Schriftsteller
Sohn eines Apothekers

Ludwig Karl Friedrich Dosch

1827 Erbach-1908 Darmstadt

Privat Lehrer

Evangerischer Pfarrer

Heiratet,tochter des Apothekers

Julius Karl Scriba

Julius Karl Scriba

1848 Reinheim-

1905 Tokio

Chirurg,Professor

Sohn des Apotheker

 




スクリバ博士の趣味  植物

 ハイデルベルグ大学植物園

     興味の範囲

The International Plant Names Index (1999年~)

 

Pteridophytes シダ植物   

 

Fossils 化石

Spermatophytes 種子植物

Flora der Bluthen- und Hoheren Sporen-Pflanzen des Grosszogthums Hessen und der

Angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz,Bingen,

Frankfurt,Heidelberg,Mannheim und Kreuznach,bearbeitet von L,Dosch,Pfarrer und

J,Scriba,Pharmceut,,Darmstadt(Verlag von H,L,Schlappp) 1873

 

Excursions-Flora der Bluthen- und hoherer Sporenpflanzen mit besonderer

Berucksichtiung des Grossherzogthums Hessen und der angrenzenden Gebiete fur

Gymnasien,Realschulen,und Seminarien bearbeitet von L,Dosch und Dr,J,Scriba 

Darmstadt (Verlag von H,L,Schk\lapp) 1878 Oct,(Excurs,-Fl,Hessen)


クコの学名

クコ 枸杞
Lycium rhombifolium Dippel ex
Dosch et Scriba

薬用植物園リスト

Kitasato  Pharmacological Gardenより

伝統薬原料植物      ナス科

果実を乾燥したものクコシ

滋養強壮薬用酒、漢方で補養薬

クコの根が生薬 地骨皮(ジコッピ)

血圧降下、血糖低下、解熱作用

クコの実 ドライフルーツにして

薬膳料理の食材となる

 



スクリバ博士と植物

1869,ハイデルベルグ大学にて医学と薬学を学んだ

1870/1871年、普仏戦争に軍医補として従軍

終戦後、3年目にAllgemeine  Beitrage zur Diagnostik der Unterleibgeschwulsteの論文で大学を卒業した。

1879年、フライブルグ大学で外科講師を務めた。

植物学にも興味を示し、ヘッセン大公国の植物に関する著書を出版した。

著作

Flora der Blüthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen, Darmstadt 1873

 

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporenpflanzen mit besonderer berucksichtigung des Grossherzogtums Hessen und der angrenzenden Gebiete,Giessen 1878

The International Plant Names Index (Copyright 2005)

Author Details       Scriba,Julius Karl (848-1905)

Area of Interest

Pteridophytes , Fossils , Spermatophytes

Eponymy   Scribaea Borkhausen(1793) 植物の学名の命名者に付けられる

Information Source

from R,E,G,Pichi Sermolli 1 March1991  from R,W,Kiger 11 July 1991

biographical details

Scriba ,julius Karl(1848~1905)

German (Hessen) physician, botanist

Dr,Medicine Heidelberg 1875

Assistant at Freiburg 1875-1879  Lecturer 1879-1881

Professor of surgery at the university of Tokyo 1881-1905

Ludwig Karl Friedrich Dosch L,DoschJ,Scriba

HessenでのFlora投稿論文)

1,Mai 1827  Erbach ~ 14,August 1908  Darmstadt

Von Dosch & J.Scriba beschriebene Pflanzen

Campanula hirta var.cordifolia Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:314

Diplotaxis muralis var. viminea(L) Dosch & J.Scriba, Excurs.-Fl.Hessen 1878:435

Equisetum limosum var.linnaeanum (Doll)Dosch &J.Scriba, Fl.Hessen 1873:9

Equisetum limosum var.verticillatum (Doll) Dosch & J.Scriba. Fl.Hessen

1873:9

Equisetum ramosissimum var.paniculatum Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:10

Equisetum ramosissimun var.simplex(Doll) Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:11

Potamogeton gramineus var.latifolius(Mert.&W.D.J.Koch) Dosch & J.Scriba , Fl.Hessen 1873:191

Ranunculus divaricatus var.heteophyllus Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:455

Sedum schultzii  Dosch & J.Scriba, Fl.Hessen 1873:439

Thalictrum galioides var.angustifolium Doscj & J.Scriba, Excurs.-Fl.Hessen 1878:400

Publikationnen

Dosch L. & J.Scriba 1873: Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen unt der angrenzenden Gebiete mit

besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg,Mannhaim und Kreuznach.-   H.L.Schlapp,Darmstadt.XLII+ 640Seiten

 

Dosch L. & J.Scriba 1878: Excursions-Flora der Bluthen-und hoheren Sporen -Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden Gebiete fur Gymnasien, Realschulen und Seminarien.- H.L.Schlapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten.

Julius Karl Scriba(1848-1905)

と植物ドイツ語書籍発行

共著

Ludwig Karl Friedrich Dosch 1.Mai 1827~14,August 1908

 

Eine erste Auflage 1873

Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthumes Hessen. und der angrenzenden Gebiete mit besonderer Berucksichtigung der Flora von Mainz, Bingen, Frankfurt, Heidelberg, Mannheim und Kreuznach.-H.L.Schlapp,Darmstadt. XLII+640 Seiten

 

Flora der Blüten-

 

Blüte (単数)------Blüten複数形   ̈blossum樹木の花

   Blüten blätter  花びら(複)

 

Die zweite Auflage 1878

Excursions-Flora der Bluthen- und hoheren Sporen-Pflanzen mit besonderer Berucksichtigung der angrenzenden  Gebiete fur Gymnasien ,Realschulen und Seminarien.-H.L.Schulapp, Darmstadt. LXXIX +572 Seiten

 

Die dritte Auflage 1887

Bearbeitete L.Dosch alleine,  Co-Autor J.Scriba 1881 in Japan

 

 



         ベルツ花夫人とスクリバ巴夫人


群馬県草津西の河原にあるベルツ博士とスクリバ博士の胸像


P244 参照

ベルツ花夫人とスクリバ巴さん

      

 

 

 ベルツ花夫人とスクリバ巴さん

 

明治時代、西洋医学を日本に導入し、医学教育で指導した内科ドイツ人医師エルウィン フォン ベルツ博士の日本人花夫人と ほぼ同時期に来日した、外科教授のドイツ人医師 ユリウス スクリバ先生の次男エミール スクリバの元妻であった日本人巴夫人が再婚して、現、黒須巳之吉博士夫人となったともえさんとの関係についてです。

黒須巳之吉先生はわたくしの母の叔父にあたり、東京永田町で耳鼻咽喉科病院院長の耳鼻科医でした。

昭和初期、ベルツ博士は東京帝国大学医学部の教授を退官した後、夫妻はともにドイツに帰国し、生活をしばらく、共にしていた。しかし、ベルツ博士逝去後、はな夫人は日本に戻り、東京世田谷区にあった広い邸宅にいたスクリバ家族およびスクリバ巴さんと一緒に暮らし、約15年間、生涯交流を保っていたという。この間、花夫人は急性肺炎を患ったとき、ベルツ博士門弟の入澤達吉博士の診察を受けた。また、中耳炎に罹った際は黒須巳之吉博士の手術も受けたという記録があります。

ベルツ花 エルウィン フォン ベルツ夫人の生涯

鹿島 卯女 著者より

群馬県草津西の河原にあるベルツ博士とスクリバ博士の胸像

 

P244 参照

ベルツ花夫人とスクリバ巴さん



明治期近代医学を日本に導入した

ドイツ人内科医師ベルツ博士と外科医師スクリバ博士

(明治9年1876年~)    (明治14年1881年~)

 群馬県草津町西の河原にある胸像

ベルツ博士(左)    スクリバ博士(右)

草津温泉にて

 

 

ベルツ花夫人と黒須巳之吉博士の夫人で

元エミール スクリバトモエさん

黒須巳之吉博士とトモエ夫人に祖父林蔵との記念写真

兄英毅医学博士の結婚式パーテイで黒須巳之吉医学博士とトモエ夫人(1970)

スクリバトモエさん(黒須美巳之吉博士夫人)とベルツ花夫人(1929)

スクリバ安夫人と子息 エミール スクリバ

ユリウス スクリバ博士

東京大学構内のドイツ人医師ベルツ博士(右)とスクリバ博士(左)胸像

 

日本の近代医学とスクリバの伝記

明治時代 東京帝国大学医学部に招聘されたドイツ人医師
ベルツ博士ともに大学で教鞭を20年間の長きわたり取り、日本人の妻と子供と生活し、
日本の医学発展に多大なる功績を遺した。
東京大学構内と群馬県草津温泉西の河原に2人の胸像が並ぶ

内科 べルツErwin von Baelz

外科 スクリバJulius Karl Scriba
ユリウス スクリバ先生の人物像
1848年6月5日―――1905年1月3日
ドイツの外科医  ハイデルベルグ大学卒
日本の医学と教育の発展に貢献

東京帝国大学医学部外科のルーツ明治政府のお雇い外国人教師
1881年(明治14年)33歳で来日

(((明治9年)に内科医ベルツ来日))

スクリバの人柄
温和 真面目な態度 温厚な性格
教育熱心 学生に対して"決して仕方がないと言ってはいけません""

家庭  日本人女性の 神谷ヤスと結婚
   3人の息子
     フリッツ (肺炎病死)
     エミール (腹膜炎病死)
     ヘンリー  須栗場

趣味  植物採集  狩猟  日本書画 骨董
    酒  たばこ

 
 1901年(明治34年)9月
 東京帝国大学医学部の外科学教師を辞職 ――― 名誉教授
 一般社団法人日本外科学会     ―――――名誉会員
 聖路加病院外科主任として2年間勤務
 神奈川県鎌倉市で肺結核で転地療養したが、肺膿瘍で死亡 
 (明治34年1月3日) 56歳で没

エミール スクリバについて

Emil Scriba 1890~1933

 エミール スクリバは

東京帝国大学医学部の外科での西洋医学の基礎を築いたユリウス スクリバ博士

日本人富山県出身の神谷ヤスとの間に次男として東京で生まれた。世界第二次大戦

終結後に日本窒素株式会社に入社して、ビジネスマンとして活躍した。しかし、43歳の時に腹膜炎

に罹り、治療の甲斐もなく、若くして急逝した。青山霊園の外人墓地にスクリバファミリーの父ユリウス、 兄フリッツ、本人エミールと一緒に埋葬された石碑がある。そのエミールと結婚していたのがトモエさんで、後に、黒須巳之吉博士と再婚し、黒須巴夫人となった。           
エミールスクリバ夫人とベルツ花夫人

スクリバ博士とその家族写真

エミール スクリバについて

Emil Scriba 1890~1933

 

東京帝国大学医学部の外科での西洋医学の基礎を築いたユリウス スクリバ博士の

日本人富山県出身の神谷ヤスとの間に次男として東京で生まれた。世界第二次大戦

終結後に日本窒素株式会社に入社して、ビジネスマンとして活躍した。43歳で腹膜炎

に罹り急逝した。青山霊園の外人墓地に父ユリウス、兄フリッツ、本人エミールと一緒に

石碑がある。エミールと結婚していたのがトモエさんで、後に、黒須巳之吉博士と再婚し、

黒須巴夫人となった。





フリッツ スクリバについて

Fritz Scriba

文献

村元 直人氏の著作 蝦夷地の外人ナチュラリストたち(幻洋社)参照

 

日本生まれのドイツ人スクリバ フリッツ 

スクリバについて

Fritz  Scriba 1885~1927

日本生まれで日本で死んだドイツ人である。

東京の医学専門学校でドイツ語教師、日本医科大学で外国語の講師

鱗翅目昆虫類の採集家、特に北方系の昆虫に興味を持つ

昆虫学者で有名な江崎 悌三と親交あり。

父はユリウス スクリバ東京帝国大学医学部外科教授と日本人妻神谷ヤスとの長男

父親の意思によりドイツで学校教育を受け、化学を学んだ。

父ユリウスは医学のほか、植物学にも造詣が深かったが、フリッツは孤独で几帳面な性格

博物学、昆虫学に関心を持った。

1922年、と1924年に北海道、樺太に採集旅行に来ている

当時、北海道大学(旧東北帝国大学)では昆虫学者の松村 松年が熱心に昆虫学を

研究していた。

スクリバ自身の昆虫関係の論文は少なく、鱗翅目昆虫の二編(ドイツ語論文)のみ、

蛾の学名にスクリバの名が残っている。

スクリバが亡くなった後、取集した標本類はフランクフルトの博物館に寄贈された。

Scribaと蝶蛾Lepidoptera

JuliusKarl Scriba(1848-1905)の東京帝国大学外科での大学生活の余暇で、明治23年頃、医局員の土肥 慶蔵先生が収集した当時の医局日誌のなかでの逸話である。日本医事新報の史傳雑筆に“美酒”というテーマで掲載がある。土肥慶蔵氏がスクリバ先生宅に数人の若い医局員とともに呼ばれ、ある時の晩餐会ではスクリバ先生が採集した貴重な植物標本類と共に胡蝶類の標本も珍しいものがあった。その蝶の翅に巴模様の紋があったと表現している。私が察するに、これはタテハチョウ科の蝶Inachis io geishaではないかと思う。

また、長男Fritz Scriba (1885-1927) の昆虫に関してである。昆虫、動物学界でも国際的な動物分類学者の江崎 悌三先生の著作からスクリバ先生の長男フリッツについての記載がある。フリッツは日本で生まれたドイツ人、日本北方の鱗翅類研究家として異色の存在であったと述べておられる。長男フリッツと次男エミールは父の故国ドイツで教育を受けている。蝶の世界的コレクター、世界の蝶蛾類の大図鑑各巻日本円にして6~7万円する大型図鑑(Macrolepidoptera of the world)の著者で有名なAdalbert Saitz (1860-1938)が明治24年日本に採集旅行に来て、フリッツが若い時、東京に滞在している際、平河町の豪華なScriba 邸に宿泊していた。その影響か蝶蛾類の興味を持たれたのであろう。大正11年夏、昆虫学者の江崎 悌三先生は樺太の汽車の車中で採集した蛾を観察中のフリッツと偶然出会った。翌日に二人で採集に出かけ、その際に捕獲した雌雄のヒョウモンモドキMelitaea maturnatoを判定している。

東京に帰ってからもフリッツは蝶でも蛾でも卵を採ってきて、飼育によって成長させ美しい個体標本を作るのが得意であった。オオムラサキはエノキが植樹であるが、フリッツの家は麹町平河町にあって豪華、瀟洒な洋館で、庭も広く、オオムラサキも以前はよく飛んでいたらしい。江崎 悌三先生がドイツに外遊する時、DarmstadtのザイツSeitz邸を訪問する際、フリッツはザイツへの紹介状をドイツ語で書いてくれたという。その後、江崎先生が昭和3年日本に帰国して、フリッツに手紙を書いたが、なかなか返事がこなかったという。、前年の秋10月7日感冒から肺炎になり、急逝したことが、弟のエミールから知らされた。彼の標本類はドイツFrankfurt のSenckenberg博物館に寄贈されたという。


 

 

参考文献

史傳雑筆 美酒 216-218 日本醫事新報、昭和6年1月

Fritz Scriba 131-138 江崎悌三著作集 第一巻 思索社

日本生まれのドイツ人スクリバ 129-131 蝦夷地の外人ナチュラリストたち

村元 直人 幻洋社


 

Julius Scriba

 

 

美酒 (日本醫事新報、昭和6年1月)

 

 

スクリバ先生は煙草には贅を尽くしていましたが、酒にも好みが多かったようです。

先生の家の厨房にはドイツ製の良質なライン産のワインやフランス、イタリア産の香り高い美酒が常に貯蔵されていた。当時、お雇い外国人の官舎は教師館を称して、平屋の洋館でベルツ先生の官舎に隣で住んでいた、ある晩、外科医局の晩餐会が行われた。その時の先生は教室での厳格な表情と打って換わって、温和な顔付で、心から歓待されていた。先生は動植物学に造詣が深くドイツの大学生の時代に(ヘッセン大公国の顕花植物及び芽胞植物)の研究を発表した1873年。またハイデルベルグ大学外科のジモン教授の助手時代にも植物学の研究を行った1878年。また、狩猟が好きで、土曜部、日曜日には、愛犬を連れて遠方に出かけた。その際、必ず珍草異花をも採集して、書斎の奥の棚に高く標本として積み上げられ保管されていた。同時に、胡蝶類にも標本として、珍しいものがあった。それらを出して若い医局助手達に見せ、詳しく説明した。また、蝶の羽の“巴”の斑紋を指して詳しく説明した。話は、日本紋所の研究にまで及んだそうです。

食卓の上には赤白青色の美しい酒類が並び、助手たちが大いに飲んで、泥酔するものまでいた。助手たちは明治21年卒、22年卒、23年卒などの面々で、酔って講釈するもの、

漫談家になるもの、ソファーで高いびきをかくもの、刀剣を振りかざして日本舞踊のまねで悦にいっているものまで大いに盛り上がったようです。

東京大学構内にて


ユリウス スクリバ博士の墓碑とともに眠る子息の墓

DrScriba 追悼文ドイツ文.pptx へのリンク

東京青山霊園外人墓地


Professor Julius Karl Scriba スクリバ教授の人物像(性格および人柄)

1来日前のドイツで学術的業績

1848年6月5日ドイツ、ヘッセン大公国ラインハイム市にて生誕された

6月5日は生まれた日と同時に、初めて日本の横浜に上陸した日でもあるという。

父が薬剤師であったため、薬剤学を教えられ、更に植物学にも詳しくなっておられた。

1869年、ハイデルベルグ大学で医学と植物学を学ぶ。

植物と医学に関する著書

Flora der Bluthen und hoheren Sporen-Pflanzen des Grossherzogthums Hessen.

Darmstadt1873 アマチュアの植物学者として評価を受け、ヘッセン大公国の“花”に関する著書を出版した。後年、日本での植物学、特に江戸時代の本草学にも興味を示した。

Untersuchungen uber die Fettembolie,Leipzig 1879(Habilitationsschrift)

Excursions-Flora der Bluthen~und hoheren Sporenpflanzen mit besonderer Berucksichtigung des Grossherzogums Hessen end der angrenzenenden Gebiete, Giessen 1888

2外科医として

来日前 ドイツ、オーストリアで外科学の飛躍的発展した時期、ツエルニー教授の元、犬で胃全摘手術に成功した。さらに、1879年 脂肪塞栓論の論文を発表して講師の資格を得た。

来日後、東京帝国大学にて

現在も手術室では、長時間常に緊張の絶えない空気で指先に集中するのは昔も同じだと思う。東京帝国大学の外科教授として、手術の時、当時の弟子たちの記録では威厳があり、相当に厳格で,周囲に激しく怒鳴る事もあったようだ。(土肥慶蔵、顎軒先生遺稿 上下巻)

“スクリバ先生”の表題で、中外医事新報に記載されているが、昭和11年12月日本医史学会

スクリバ先生追悼の夕と題して、まず近藤次繁先生がそのスクリバ先生の為人を述べておられる。南ドイツのヘッセンの人間は概して非常に人が良い。辺幅を飾らない人で、衣服の内側が破れると当時大学近所の洋服屋に行って、縫い合わせた継ぎはぎだらけの服であったという。酒と煙草は非常に贅沢で、自宅の貯蔵室には何本も良いものが取り寄せてあった。ある晩のエピソードも述べておられる。それによると、先生が病気になったとき、門人が宅に詰めかけていたところ夜10時ころ、そこにベルツ先生が入ってこられ、皆は腹が減っただろうと、この家にはいいものがいっぱい置いてあるとの事、今まで食べたことのないような珍らしいものを食べたり飲んだりしたと書いてあります。

帰りには煙草の箱から手づかみでいっぱい紙煙草をポケットにいれてもらったと述べております。それを笑いながら見ていたスクリバ先生は、“持っていけ”、“持っていけ”と言っておられましたと。

3医局員たちと

スクリバ門下生の十哲をいわれる、田代義徳を筆頭、近藤次繁、土肥慶蔵、関場不二彦。芳賀栄次郎、西山信光らが、外科医局時代および当直日誌の回顧録“スクリバ外科医医局日記”を

残してます。ヨーロッパ製の葉巻を燻らせ、各地から輸入したワインを自宅に多く保管し、時々 医局員や学生を自宅に招いて大騒ぎする豪放磊落で開放的な性格であったようです。

温和、真面目な態度、温厚な性格である。

学生に対して“決して、仕方がないと言ってはいけません”と厳しかった。

当時の宿直日誌には医局員の、高橋金一郎、佐藤勤也、小林文次郎、三宅 速、鶴田禎次郎、丸茂文良 佐藤碧海、古川栄、戸塚巻蔵などの名前が登場する。

 

4趣味と余暇

日本の文化に対する興味、識見も深く、当時の明治時代は西洋崇拝で、日本の美術品が軽視さ

れていた。日本の古い貨幣も収集していたようだ。

流失を防ぐため、自ら多くの日本書画の作品や骨董を収集した。また、植物採取の標本や蝶も収集していた。日誌の記録によると、先生の部屋で一頭の蝶標本を見たときの表現として

羽に“巴模様“があったという。日本には国産の蝶は白水隆氏のに日本産虫類標準図鑑や藤岡知夫氏の”日本の蝶“の検索図鑑を参照すると、土着してる228種の蝶が分類されている。蝶の羽の表現で目玉模様とか蛇の目模様は使われるが巴模様はいわれていない。そこで”巴“の意味を辞書で参照すると、丸く3本の矢が流れてい行くさまを表現してるという。円い斑点模様をもつ蝶は前翅と後ろ翅の左右2個づつ計4個の円形蛇の目模様があるクジャクチョウでないかと類推する。タテハチョウ科で高い山か高原に多く、当時はまだ自然環境が維持されて、平地でも比較的多くみられたのではないかと思う。学名Inachis Io Geishaで非常に美しい模様の蝶である。深紅の赤と瑠璃色に白色の孔雀様の斑紋がある。近年では環境の変化で減少傾向にある。

5家庭では

昭和11年12月4日日本医史学会のスクリバ先生追悼の夕のなかで、59頁~“スクリバ先生

を追悼す“の題で、関場不二彦先生はスクリバ家族の事を述べておられる。

狩猟が好きで、休日は軍医の経験から猟銃をもって野山に出かけたのではないか思う。

猟犬を連れて、葛飾、浦和、熊谷、宇都宮方面まで出かけた。狩猟に出かけるとき一緒にお供するのが、友人で理科大学の飯島魁先生、元外務大臣青木周蔵公使、聖路加病院のトイスラー先生などでありました。愛犬“ローラックス”と命名して可愛がり、その死別の時にも大変悲しまれ、涙を流され、死を悼み、手厚く葬ったそうです。

日本で初めて犬シェパードを飼い、大正天皇が皇太子の頃、御所に出かけ謁見したという。

長男はフリッツが病死。次男エミールはドイツに留学して、商業についたようですが、腹膜炎で若くして病死したため、その人の夫人だったのがスクリバ トモエさんで、小西を名乗っておりました。昭和8年3月東京府立第3高等女学校を卒業され、エミール夫人でしたが、亡くなられたため未亡人となり、後年、黒須巳之吉先生と再婚されました。その前にエミールとの間の娘さんエミ子がいて、目下、東洋英和女学校小学科で修学中でありますと。その後、群馬県に嫁いでいったようです。関場先生によりますと、スクリバ先生は肺膿瘍で亡くなられたと記載ありますが、実は肺結核であったようです。

 

6晩年と聖路加病院

1989年(明治32年)日本外科学会の第2回総会が開催され、第1号の名誉会員第1号で会員から推挙された。

1901年(明治34年)53歳で東京帝国大学を退職し、名誉教師の称号を与えられた。

1902年(明治35年)聖路加病院創立 

初代病院長のルドルフ トイスラー(Rudolf B Teusler)の聖路加病院の外科主任に就任した。

1905年(明治38年)56歳で鎌倉にて没す。

東京青山の外国人墓地に家族とともに眠っている。

西山信光先生の“スクリバ先生追憶会の記事に追加す”75頁~によると、スクリバの直弟子であった三輪徳富先生の弟子が西山信光先生である。ある時、横浜のドイツ海軍病院閉院で軍医が帰国するため、送別会が芝公園の紅葉館で開かれた。西山先生は森林太郎(森鴎外)先生と二人で到着したが、そのとき後からベルツ先生、さらに青山胤通先生がスクリバ先生と入られた。  ベルツと青山先生が話してる間に、森博士がスクリバ先生を紹介されたと記載してます。その中でスクリバ晩年の事を述べておられますが、スクリバの次男エミール氏の未亡人巴さんが黒須君と再婚されていたので、色々資料を調査し得たと記しています。スクリバ先生は従来糖尿病を患っておられ、1903年秋頃からひどい咳症状に悩ませれていた。頑固な咳で一度ベルツ先生に診てもらったらと勧めたが、ベルツは饒舌だからいやだと拒否されたようです。終焉の1904年の元旦、長男フリッツ氏、次男エミール氏がドイツに留学中不在で、家族では夫人と3男ヘンリー氏と久保徳太郎氏のみ、この3人で寂しく見守られ昇天されたのでありました。関場不二彦博士の話のように、先生は植物学に非常に造詣が深く、日本各地、樺太、台湾、中国、朝鮮等採集した標本を倉庫に山積し保存していた。診察した症例記録、写真等はヘンリ氏が収蔵してるという、また、エミール未亡人(巴さん)から借用した資料の中に浮世絵や書画の書家の氏名を順に記載し、その年代や印譜など整理して保管していたようです。



ベルツ通りとスクリバ通りーー草津温泉(群馬県)

 

群馬県草津町の草津温泉湯畑を中心に北側と南側に町を囲むように街道がある。

 

万座温泉方面に抜けるコスモス街道から北に分かれるベルツ通り-ーー日本の近代西洋医学の

発展に貢献し、温泉医学特に草津温泉を世界に公表した功績に内科医ベルツ博士の名称を

冠した通りである。

また、長野原から草津に向かって入る手前の天狗山通りから東方向に分かれたスクリバ通りーー明治初期に外科医としてベルツ博士をともにたびたび草津温泉に訪れた医学博士の名をとって

スクリバ通りと呼ばれている。

ドイツ出身の二人の先生はともに、明治時代初期に来日し、日本人の奥さんと約20年以上も

日本で生活し、東京帝国大学医学部にて長く教鞭をとって、西洋医学(ドイツ医学)を教授され、数多くの業績を残された。

東京大学構内と草津温泉西の河原にそれぞれベルツ博士とスクリバ博士の胸像が並んで立てられている。

 

 

西の河原で並ぶ二人の胸像

 

天狗山通り沿いにある立て看板 

スクリバ通りの標識

 

 

 

 

 

 

 

スクリバ博士

 

 

ベルツ通りとスクリバ通りの案内表示

草津町の観光マップ

 

草津温泉湯畑囲い石

スクリバ通り 群馬県草津町地図案内

Dr.JULIUS SCRIBA

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             スクリバ通りーー>

 

 


 


スクリバ博士の外科学系譜 (Julius Karl Scriba 1848-1905)

新潟市出身の蒲原 宏先生は2001年日本医史学雑誌第47巻第3号576ページに詳細に調査した結果を論文で掲載しておられる。

スクリバの外科医をしての学術的経歴と原著論文および医師としての履歴を正確に検証された。

それに依りますと、スクリバが最初に医学を学んだのはドイツのハイデルベルグ大学に入学1869年でした。翌年普仏戦争勃発のため軍医補として従軍しました。終戦後、再び

大学に復帰し、ジモンに外科学を学び1874年、卒業論文 Allgemeine Beitrage

zur Diagnostik der Unterleibsgeschwulste で医師資格を取得した、その後1年間

ベルリン大学ランゲンべック教授に師事、1875年、フライブルグ大学外科のチェルニー教授について外科を学んだ。チェルニー、カイゼルと共に犬の胃全摘出手術に成功した。

その後、チェルニーはハイデルベルグ大学の外科教授として転任した。

チェルニーはウィーンのビルロートの門下で、胃癌切除術で有名なビルロートが1881年行ったが、胃癌全摘出術の手術に大きな示唆を与えていると考えられる。その後、ヘルマン マアスがプレスラウ大学から赴任し、指導のもと、教授資格取得論文として脂肪塞栓論Untersuchungen uber die Fettembolie  Deutsch.Z.f.Chirurgie Bd.12.118-120,1880を完成させた。その他マアス法として知られる脊椎結核治療の報告も行っている。

蒲原 宏先生の論文を紹介した。

明治初期の西洋医学導入時、日本の近代医学に貢献した
政府"お雇い"外国人医師

内科医師べルツ、外科医スクリバと日本人妻の家族

Erwin von Baelz 1849-1913
東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として29年間日本に滞在
医学教育に貢献し、研究に活躍した。
関係年譜
1866 エルウィン チュービンゲン大学)医学入学
1869 エルウィン ライプチヒ大学 ウンデルリヒ教授の内科臨床講義受講
1875 エルウィン ライプチヒ大学病院入院中の留学生相良玄貞と会う
1876 エルウィン 日本に到着(明治9年)
1880 エルウィン 草津温泉に注目
1881 エルウィン 荒井はつ(ハナ、花、花子)と出会う
1888 エルウィン 荒井花子と結婚
1889 長男 トク(徳之助)誕生
1890 エルウィン 明治天皇と皇太子の侍医となる
1892 エルウィン 東京帝国大学名誉教授の称号
1893 長女 ウタ誕生
1896 長女 ウタ生後2歳で急死
1900 長男 トク(10歳)単独で渡独
1900 エルウィン 勲一等瑞宝章授与される
1902 エルウィン 東京大学在職26年間の教師生活を終える
1905 エルウィン 離日
1905 エルウィン ビュルテンベルグ国王から修道騎士十字章を受領
1907 東京帝国大学医学部大学構内のベルツ、スクリバ両教授胸像の除幕式
1913 エルウィン 大動脈瘤破裂で死去(享年63歳)
1916 トクの長男ハット誕生
1918 トクの二男クノー誕生
1922 ハナコ日本に帰国 旧スクリバ邸にてスクリバ トモエさんと共に生活
1935 ハナコ草津のベルツ記念碑の除幕式に参加
1937 ハナコ東大病院で逝去 胃癌(享年74歳)
1945 トク ベルツ東大病院にて没


業績
東京医学校で生理学 病理学 内科学 産婦人科学の教鞭をとり、近代医学の指導に多大な貢献をした。
当時の十二指腸の寄生虫発見や栄養学の脚気の研究をおこなった。
明治11年より草津温泉の温泉治療について医学的効能や化学的研究を世界的に紹介した。明治18年日本鉱泉論を政府に提出した。
日本人の人類学的研究 日本人の身体的形質の論文発表 蒙古斑
予防医学 衛生学の向上
箱根の冬凍傷の治療(ベルツ水)を考案した。
ドイツにおける柔道の普及  武道の医学的効果に着目し、健康維持に"日本人の
身体教育"出版してる。
宮内庁御用掛侍医局顧問として明治天皇、皇太子の健康管理に従事し勲一等瑞宝章と旭日大綬章を受領している。


Julius Karl Scriba(1848-1905)
東京大学医学部の外科系の教師として、明治政府のお雇い外国人医師の一人として1881年(明治14年)に着任した。当時明治政府は西洋医学を導入するに当たって、ドイツ医学を採用した。明治4年、ドイツ人教師ミュレルとホフマンが来日した。その後任として、明治7年にウエルニッヒとシュルツが来日したが、それぞれ2~3年の期間で帰国している。シュルツは外科と眼科を担当していたが、その後任に明治14年スクリバが来日、その後20年間、東京大学医学部で在職し、ベルツ同様日本人妻と家族と共に長く日本で生活した。日本の近代外科学の発展に貢献した。
歴史上 明治初期 ミュレル、シュルツ スクリバと3名のドイツ人外科医師が挙げられる。
長期間 教育に尽力したベルツと並び称せられるスクリバは日本外科学会の恩人であると言われる。

スクリバは1848年6月5日ヘッセン大公国ワインハイムに生まれた。父親は
薬剤師であった。
1869年ハイデルベルグ大学に入学、医学と植物学を学んでいる。1874年に卒業している。このころドイツやオーストリアでは外科学だ飛躍的に発展していて、彼も高名な外科教授の元、実験的に胃全摘出術を行っている。1879年に脂肪塞栓論の論文を発表し、講師の資格を得ている。1881年(明治14年)6月東京大学に着任するが、彼は非常に学術的で最先端の外科学を指導したという。長く日本に滞在したが、ベルツのように多くの記録を残さず、彼に関する書籍もほとんど無い。性格は豪放磊落で開放的であったという。1901年(明治34年)53歳で大学を辞職した後、4年間、築地の聖路加病院で外科主任を担当した。日本人妻神谷ヤスと結婚して3人の息子がいたが、長男フリッツが肺炎で病死、二男エミールは腹膜炎で病死、三男ヘンリーがその子孫として須栗場と名字を変え杉並区に住まわれている。スクリバの手術器具や顕微鏡などは東大総合研究博物館に保管されている。また、所有していた蔵書類は息子が日本医大の英語教師をしていた関係から図書館に寄贈されたという。

参照
医学近代化と来日外国人  世界保健通信社より
東大病院外科系各科のルーツ、スクリバ先生・生誕160周年 東大病院だより
No62 平成20年8月31日より
日本近代医学の父ベルツ博士と草津 ベルツ記念館発行平成15年3月30日より

在日ドイツ人協会[1]

 

横浜会議  会議録      P374~388

1892年11月25日

 

座長 R.Lehmannレーマン氏

技術者のHBeenkenベーンケン氏が会員名簿に登録される事になりました。

Dr, JScribaスクリバ先生が下記の文章で“大震災地域への遠征”について、次の文章で記述しています。

皆様方へ;私には地震の理論についての講演を期待されることはありません。なぜなら地震学について理解出来ていませんし、ただ、私が現に見てきた事とProf,Burtonバルトン教授の撮った数枚の写真を通じて説明するつもりです。また今晩のお招き受けた為、私は一部購入して、その写真展示します。10月28日早朝6時40分、東京で特に強烈な地震が観察されたのです。それはいわゆる軽度の波打つ揺れでなく、激烈な切り立った縦揺れでした。最大の建物崩壊と家屋倒壊の実情について、我々はまず横浜に電報を打ちその後、大阪にも送りました。まず第1報が28日夕刻に着信した。30日に私は帝国大学で構成する医師団を結成した。夕方までに私は遠征のため4人の助手を手配し、14人の学生にも連絡し、病院で働く仕事柄、医療班21名の遠征隊の強化をはかった。我々はこの日の夕、速やかに出発して、岡崎までたどり着いた。そこで、我々は苦労して車すなわち人力車を何とかかき集めた。一台一人の車夫に10里の距離に対して3ドル支払わねばならなかった。夜遅くやっと我々は名古屋に到着した。途中、我々は強烈な地震の破壊の痕跡を目の当たりにした。岡崎駅舎の建物は悉く崩壊して、石灰でできた壁は剥がれ落ち、傾斜していた。通路は深く陥凹し、広大な亀裂ばかりでなく、田畑の方向にも伸びていた。徐々に被害状況が明らかとなってきた。大多数の家屋は崩壊し、仮の掘っ立て小屋ばかりで、無傷の家は殆どなかった。知立の近郊でも数軒の倒壊した家屋を見い出した。無数というくらい家の周囲に、石灯籠、寺院の灯篭などが悉く倒壊していた。多くの石灯籠は真ん中から折れ曲がっていた。知立で多くの陸橋が崩壊していた。ここから人力車で移動した。2階建ての郡の建物がかなり広範囲に損傷していた。我々は2階に案内されたが、苦労してやっと到達する事が出来た。絶え間なく強い地震がやって来て、大砲を打ち鳴らすが如く鋭い地響き音がこだまして、その後、細かい揺れが続いた。後になって、一宮では常に大きな轟音が鳴り響いていた。これらの地震は決まって短時間の振動をともなっていた。地響きなく、強風のような轟音だけでも発生した後、家々と大地に強大なガタガタ揺図 1ゆれる音が続いた。我々は初日から、一日少なくも200から300回の地震を感じ、それにより誰もが神経過敏になり始め、損壊した建物の中では特にそうである。そして辛うじて立っている建物でも多かれ少なかれ崩壊する事になるであろう。我々は徐々に鳴海村にやって来て、この近郊でおよそ80歩の距離の橋を見つけ、それは波状に折れ曲がっていたが、それでもなお堅固に立っていた。橋の上を通過することが出来たが、橋の両側には石で重く固定した掲示板があった、車屋は我々に橋を通すのに苦労をしたであろう。河川の防波堤は一方で激しく沈下して、陸橋は大地から4歩ほどの深さで垂れ下がっていた。そのような波状に折れ曲がった陸橋は後にも多くの個所で見かけた。それから、我々は笠寺という村にやって来た。ここに一か所、大きな寺院が立っていて、その周り6~8つの建立物もあったが、その壁は傾きかけていた。壁土は剥がれ落ち、隣接する建物に寄りかかっていた。黒田にある寺院で、後に私ははっきり見届けたが200年以上は経過しているような古い寺では、健常な丈夫な垂れ木がわずか2~3か所の線状の破損であった。証拠としてどこでも非常に強大な激震が作用した可能性がある。熱田から笠寺までの道のりは家々が連続していたが、ほとんど全て倒壊していた。家並が砂漠化した恐怖の間、振動と縦揺れが藁ぶき屋根をおそらく小さな山のごとく積み上げていた。波状の運動がこの屋根の惨状を物語っている。また瓦屋根の家屋も立っていたが、全地域で一様な波状方向の形状を残していた。すべての地面も波状運動の後が見られた。そして、岐阜のすべての街道は波状化していた。その結果、人々は立ち止まってばかりでなく、自由に動き回っていたが、その都度、新たな衝撃に襲われた。完全に徹底的に荒廃していた。熱田では人々がまだ残骸の下で横たわっていた。我々が名古屋にやってきた時には残骸の中から救助を求めて叫ぶ声が聞こえた。しかし、さらに続く地震の揺れに対して、誰も手助けが出来なく、やがてその叫び声は次第に消えていった。横浜から来たO,Keilケイル氏は大規模な救助隊を編成しているのが知られ、ある女性は15日後に残骸の中から救出され、その命が救われた。30日後の給餌されている写真は生きている骸骨のような画像であった。名古屋と熱田の地域の人は緊急で4本の柱を立て、床に畳やゴザを曳いて寝転がっていたり、ゴザを壁のように垂れ下げ、障子や雨戸を屋根替わりにしていた。家がまだ立っているところでも、住民はそのような小屋で生活し、火鉢の周りに座っており、子供たちは残骸と土砂の周りで遊んでいた。その後、一宮での脳裏に焼き付くような光景があった、そこでは一人の子供が震災で潰れた残骸の中、子供の父親の死体おそらく埋まっているのであろう残骸の砂地で遊んでいるようにみえた。名古屋では同様にほとんどの家は立っていたが、多くの歩道は寸断され通行できなかった。そこでは崩壊した家があちこち横たわっていた。まずここの第一印象はとして、われわれがあとからこの土地にやってきたが、まだまだ多くの困難が残されていたにも関わらず、かなり生きようとする力があった。名古屋では4時ごろに一部剥がれ落ちそうになった県の建物に到着した。すべてが大混乱となり、知事は我々にこの地域では医療を含めてよく支給されているといい、我々の救援を必要としなかった。それでは我々は更に別な地域に出かけようと話した後、県の担当者は長い会談のあと、我々が地域を回って、援助をしたいと申し述べた。我々が名古屋の有名なホテルに滞在中、特別ヨーロッパ風の食事が与えられた。ある家の壁は完全に剥がれ落ちた。ある人が我々を2階に案内した。人々はかなり混乱しているようだった。そして我々は彼らにここでよく眠れるかどうか尋ねた。すべての人は不安で薄ら薄らで眠れず、近所の人は、私にこの地震の経緯を説明していようとしていた時、その辺を走り回って居た。人々は火事が次々と発火してゆくのを恐れてはいなかった。ここで、我々は最悪の日本食を摂った。夜になると道路のあちこちに兵士と民衆が溢れ、叫び、石油缶をたたいて、火災の警告をしていた。ここでは一睡も出来なかった。瞬く間の強い地響きが続いた。翌朝6時、我々はさらに広い範囲で名古屋を回った。我々は一袋の米と25ポンドの肉を手に入れた我々一行は18名の男子がいるため、備蓄するためであった。ここで最悪食糧がなくなるという事態にならないために。同行した県の役人は広く共に行動し、その行く先で名古屋のこの惨状について述べていた。この市街の南部と東部に破壊されているが、ほかの地域でわずかによい状態で残されていた。道路の脇には大部分の残骸物が幾重にも積み上げられていた。途中の崩落した河川橋では通行が遮断されていた。同様にかなり古くで立派に建てられたものでも壁が剥がれ落ちていた。頑丈そうな壁までも部分的に落屑していた。名古屋では石で積み上げられた家でも崩壊してセメント工法の建築物もねじ曲がっていた。ほとんどのレンガ造りは粉々になっていないが、モルタルは砂との摩擦が生じていた。石でできた建物は最悪の材料の構造として露出しているし、塀に囲まれた3階建ての兵舎は石でできた構造物が瓦解していた。近隣の木造の大きな建物はほとんど無傷であった。そこでは石造物がほとんど壊滅状態なのに木造の家はよく保存され、地震に耐えていた。しかし、そこで一回りしてみると、日本人は石でできた家はまだ少なく、木造の家が目立つばかりである。被害を被った村々ではまだ田んぼで稲穂が立っていたが、そこに刈り取る姿の働く人は見られなかった。至る所、緊急避難小屋ばかりで、避難する人だけで、米を貯蔵するまでに至らない。米は12月中旬まで十分保存が効くが、人々はそれまで、まだ自分の家を持てないし、さらに多くの物を失うだろう。11時ころ小里に到着し、そこに病院施設があり、赤十字社が適宜、治療目的に活動していた。我々は大学から救援を得ているのに対して、赤十字社は15万ドルの資産を持ち、治療のために十分な資材を装備していた。その後、我々は800戸の家がある岩倉というところにやってきた。そこではもはや建立物は一斉なかった。この土地は瓦礫で幾重にも密に積み重なっていた。そこで屋根の上をよじ登って、その村を通過するため、車を通すようにしなければならなかった。我々はここで数人の怪我人を治療し、赤十字社の病院に患者を送り届けた。午後2時頃、我々は黒田に到着した。750戸の家から4-5個の残骸を見つけた。ここで直ちに車やの助けを得て、寺院の鐘の音を聞きながら、小さな避難小屋を建てた。約2時間で出来上がった。6本の支持する柱は地中に掘られ、2~3本の横木を壁と屋根の支えとした。そして、ムシロで小屋を覆った。ムシロは細い稲穂によって急ごしらえで出来たマットである。この敷布のマットで少人数の治療を行い、いつも広い空白部分があった。我々にとっては住居として、また病院として、台所として、食堂としても、すなわち、手術室、患者の診察室、調理や食事など、まるで宮殿みたいな場所で仕事をしていた。さらに天気の良い日には自由に出歩いた。粉々に打ち壊された中庭で、町の名人達が一日中2個の釜で夜10時頃まで、2500人の市民の為に、ごはんの炊き出しをしていた。3個目の釜は村にはなく、我々は平等に自分たちのコメを炊きださねばならなかった。行政はかなり多くの仕事をして、人々の苦難を軽減していた。とりわけ、米の配給はよく手配されていた。ただすっかり焼け落ちた町では米が届くまで5日かかった。人々は恐怖のあまり朦朧として仕事にならないし、街道や鉄道はすべて寸断されていた。本日午後にも、まだ36名の患者を治療することになるであろう。われわれの病院は駅舎の近くに建って特に、鉄道のレールは波状に曲がりくねって目立つところにあった。レールや前にある直線的な防波堤は強強靭な形で曲りくねっていた。住民はかなり恐怖に慄き、しかし保全された家では夕方にあかりが灯り、安心しているように見えた。でも黒田全体では何処も明かりや火がともされていなく、家も暗がりで立っていた。次の日、私はさらに木曽川から笠松に向かって、2番目の病院に到着した。と同時に一宮へ助手を向かわせた。笠松で私は以前私の生徒だった井上医師に出会った。彼は大阪からやってきて、病院に着いたばかりだった。笠松は地震によってまず、周りの建物が崩壊し、火災によって焼け落ちた。ただ、川のそばに立つ4~5軒の家はよく健常に保たれていた。そこに井上医師が住んでいた。川べりの防波堤は全体に小さな亀裂が生じていた。川岸の亀裂が全くないところでも家が崩壊して、深い亀裂のあるところでも家はそのまま立っていた。富士山の部分的に崩壊したという報告が確認されており、東京や横浜が多少被害を被っているだろうと、我々は予測していた。最も強く地震が生じた震源地は惨状の被害少なく、家屋の損壊もすくなかった。笠松には長く滞在することはなかった。ここで、我々は火災で焼け落ちた家から拾われた火鉢と茶筒を買うことができた。我々の病院内でこれ等を備え付けて快適に過ごせるようにした。ここで、私は視察中の松方総理大臣と愛知、岐阜県知事とともにお会いした。笠松近郊で木曽川に掛かる橋が完全に崩壊し、ブロックの中の頑丈な支柱は徹底的に破壊されていた。黒田ではこの日のうちにおよそ40人の重体患者を診て、その後、一宮に行って約30名の重傷者を診た。郡の役人は非常に丁寧であった。我々はある寺院の境内にある病院に到着した。一宮の破損状況は著しく、2000戸が倒壊し、200戸のみ家が免れた。大地は激しく地割れが起こり、代わりに木曽川の河原の大量の土砂をもたらした。岐阜県と愛知県ではどちらもそのような砂がもたらされた。高さ5-6歩幅の富士山の形になった小さな砂山が形成された。その山の中央に陥凹ができ、高さ約10~12歩幅の距離から泥や水が流れ出していた。保住では5日から6日の間に高さ1歩幅ぐらいの地下水が湧き出しているのを見た。この地域では泉から砂の流出があり、神社の池からも地表から3mの水位で流れだしている。刀剣の刃先のように積荷何台分もの砂が噴出している。ほかの場所では木製や石材の刀剣や勾玉(腎臓の形の宝石)、さらに黄金の巻物、時代物の陶磁器が大量にみられた。ただし、詳細について私はよく分からない。いかなる場合でも木製の刀剣の埋蔵はかなり信じがたいし、土壌で腐敗してしまうであろう。但し、実際に多くの魚が発生している。大津では比較的よい形で保たれた村で、約30分の距離、名古屋と一宮の間の位置の存し、3匹の生きているナマズを捕らえている。そこで、ナマズが地震の発生原因であろうか。だから住民はもはや地震が来ないものと信じきっている。別な地域では特に近隣の大地に沼池が発生して、ウナギが現われたり、信じ難いだろうが、海の魚である鯛が出現する不可解な出来事がある。次の日、私は本拠地を一宮に移した。同時に大越で木曽川の沿岸にそって第3の病院に到達した。その病院の場所は激しく損傷し、およそ10から12歩幅の深さの川の防波堤に選ばれていた。その亀裂は長くて一里の距離であった。防波堤の上層部は大地の硬度や土の性質によって引き裂かれたような。粉々になっていた。その裂溝は北西から南東方向に走っていた。岐阜ではとりわけ良い医師がいたらなあと言われた。しかし私の助手は根尾谷で10日間も医療援助のない日々を送った人々に出会った。そこではすべて外傷患者の傷が化膿して、ウジ虫が涌いていた。特に、これらウジ虫はこの地で有名で非常に多く使われている接骨医が売り出している浅井シップの下から見られた。このシップの下には大量の蟯虫が集まっていた。岐阜では予め病院内の観察を願った。夕方、私は一宮から戻ってきた。夜、雷雨があり我々は室内に閉じこもり、雷の轟音を聞いていた。ここでは雨足が強く、大量の雨量となり、ある寺院に一時避難せざるを得なかった。そして我々は雷鳴と地震の轟音とを区別する事が出来なかった。地震の地鳴りは大抵短く、その後に振動が続いた。我々が避難した寺院はどれも200年の古い歴史を持ち、上等な木材で構築されていた。寺院の敷地内には多くの建築物があり、本堂の床には明らかに亀裂があり、3か所の部分に裂けていた。ほかの小さな寺社にも強い裂傷があり、その屋根が強く締めくくられていた。ほかの寺院では完全に倒壊していた。その隣の建物は斜めに傾いていたが、鐘突き堂はしっかりと垂直に固定されていた。この病院で我々は多くの訪問客を持った、その中には明治天皇の使節団、以前私が手術をしたことがある北条子爵閣下もいらした。私は3回の手術を施行した。6日から7日の岐阜県を通過する行程で、笠松から竹ヶ花に至るまで2000戸の家々を見た。笠松、岐阜、大垣と、町は完全に焼失していた。そこから大垣に向かって移動したが、そこの建物は学校もそうだが、火事から完全に守られていた。高架鉄道のレールの地盤沈下は激しく、橋も捻じ曲げられていた。長良川に架かる鉄道橋は全長2700メートルでそれぞれ5本の鋼鉄で支えられたものなので、かなり興味深い。石とセメントで充填され、円筒の壁の厚さ支柱は1.5mあった。柱全体が一度か2度の揺れで破壊されていた。そして橋が完全に倒壊してしまった。この橋の近くの村には巨大な地割れが生じていた。広大な荒廃した村にも係わらず、多くの家が健常に立っていた。地割れした地域の村では行方不明者が報告されていた。が誰もその場所や位置が分かっていない。川が増水すれば、大量に土砂があふれる。北潟は781戸の家があり、そこでは640戸が全壊である。その他は半壊の損傷であったが、完全に骨組みだけの家もあった。ここは3506人の住民で、そのうち88人死亡している。大地震が発生した初日から11月3日まで毎日3376人の救援隊が入った。主食のコメの調達は最悪であった。また政府も全地域で、このことに明らかに心配、配慮していた。我々は穂積から岐阜に来た。そこでは、広大な地震災害は名古屋ほどひどくなかった。ただ一筋の街道が波状に盛り上がっていた。この波状の地表は長さ9里ほど続いているにちがいない。岐阜では町の4分の3が焼失した。残った家はおおかた健常に立っていた。県境の山岳である白山を背後に渓谷の根尾谷の荒廃地に私は2人助手と立ち入った。巨大な裂溝が谷を通過していった。白山で割れた断層は過剰なほど深い裂溝が見えた。根尾谷では金原方向に一斉に地盤沈下した家が集中しており、そしてほとんどが崩落していた。この地域全体が沈下していた。美取村では20歩幅深く沈み、川は埋没されていた。地盤沈下全域が4町の長さと、8町の広さを数えた。家々は一部で崩壊し、他の一部で健常に立っていた。山肌はあらゆる方向に剥がれ落ち、家と木々はなぎ倒されていた。地域の人々はとりあえず木材を利用して生活を維持していたが、樹木はいままで地表大部分を覆い、河川が氾濫した事により、埋め尽され、もはや生活できないであろう。高原も同様に破棄されていた。これらは細心の注意を払って対処すべきであろう。石の舗装道路の上に粘土層があり、田んぼとなる耕地が破壊されていた。粘土層に亀裂が生じ、そのため米農地が崩壊した。数千人の住民がこの谷で孤立して、北海道行政府からの食糧が向けられた。富士谷では深い穴が出来、そこに10分間ほど砂利が流れ込む音が聞こえた。この近辺では深い陥没が起こっていた。そこに学校があり、大きく倒壊していて、その屋根は道路の上に載っていた。この地盤沈下がプレートの移動を起こした。農耕地を切り離した小道は蛇行して、段差を生じて、ズレ込んでいた。以前、右方向に曲がっていた道路は直線方向へと変わっていた。琵琶嶋にある木製の橋が興味深い光景を成していた。大地震がもたらした全体的な印象は何か爪でひっかいた跡のようだった。鹿児島でも人々は同様体験し、家が崩れ落ちた。地震が発生したあと反対方向に移動して、地表の割れは東から西に方面に向っていた。森林の木々はそれほど損傷してなかったが2~3本の木がなぎ倒されていた。

崖は長いき裂ができていた。深さ何メートルにも亘って沈下していた。人々の外傷は殆ど皮下損傷、軟部組織の圧挫傷や神経損傷、骨折、捻挫、脱臼、少数だが複雑骨折か頭蓋骨骨折、重篤な脊柱圧迫骨折などが担ぎ込まれた。石でできた家でも日本式家屋と同様多くの重症患者をだしていた。ここからは日本の新聞からの報道です。名古屋では多くの女性の気が狂った状態になったという。すべての人は神経過敏となり、ヒステリーの発作襲われた。竹ノ花では皆、盗難の恐怖に襲われた。誰もが光のない生活になり、身の危険がなかったが、泥棒や刺し傷、殴打が起こった。夜間明かりを持たないで外出する場合、あかりを借りるか警官に付き添ってもらわねばならない。岐阜でははじめわずかなコメが残っていたが、1升20銭であったが、徐々にその価格が上がってきた。枇杷島や名古屋では3~4日間に瓦解した屋根のもと多くの負傷者が出たが、人々は恐怖のあまり不幸にも救助できずにいた。ある記事はただ“南無阿弥陀仏”と唱えるばかりだった。竹野原ある寺院では地震で恐怖に慄き、打ちひしがれた70名の人が早朝の祈祷に際して、住職が皆を呼び寄せていた。ある者は震災で出血している人もいた。これらの人たちは迫りくる死の恐怖に対して、神聖な救済となっているようにみえた。ここでは死亡者や焼死者がかなり少なかった。人々には焼却場が少ないため、骨壺なしで死者の灰を埋めていた。

 

 

 

愛知では全戸数62千戸のうち、

31806戸全壊、30000戸半壊 875寺院の損壊

岐阜では18万1千戸の家屋のうち、45千戸が倒壊、5000戸が火災で崩落

 

ここからMFescaフェスカ教授が続けます。1891年10月28日の大地震の原因についての論評

1028日発生した大地震の大規模災害の作用機序の印象について、誰もが地震の揺れの原因について疑問を持っていた。大勢を占める観測として、地震が再度やってくるかである。

1.       火山の噴火について

2.       地球の殻の1層で固定して、ある物質の集約と名目上物理的に、凝縮した大地にいろいろな段階で振動(特に密閉化)が激しい揺れを催すものであろう。徐々に地球が冷却され、あるいは宇宙規模の原因で、主に巨大な重力の作用で、あるいは他の何だかの作用機序,電気的な作用が働いたものであろう。

火山性地震はよく地域によって起こる現象である。地震学者の学術論が更に続く・・・・・・・・・・

訳 高橋 日出雄

Aug.11,2018

 

 

 

 

 

 



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明治の西洋文明導入の時期に来日したいわゆる政府の招聘した

いわゆる“お雇い外国人”の中のドイツ人医師外科医のユリウス

スクリバ博士の住居が当時 東京都麹町平河町5丁目にあったが、

(今では現存せず) 明治29年(1896)その邸の設計と建築にあたったのが建築家の英国人コンドルConder Joseph Josiar (1852-1920)でありました。

ドイツ語読み発音でコンデール、 英語発音でコンダ―であろう。

当時はコンドル先生の名で呼ばれていたようです。

彼の代表的な建築物は政府関連の豪華な建物や財閥の建物や別荘などがあります。その中で特に有名なのが鹿鳴館、ニコライ堂、港区三田綱町の三井倶楽部などで、その他、有栖川宮邸、岩崎弥之助邸、スクリバ邸、イタリア公使館、ドイツ公使館、ベルギー公使館、古賀虎之助邸 その他多くの設計作品があります。

 

 

スクリバ邸とコンドル先生の建築物 

 

明治初期(明治10年)1877年に日本政府から招聘されたお雇い外国人でイギリス出身の建築家ジョサイア コンドル Josiah Conder(1852~1920年)です。

西洋の建築文化を伝達し、政府関連の建築物を設計し、さらに 日本人の建築家や子弟を育成し、建築教育に活躍し、日本の建築界の基礎を築きました。教師として、本格的な西洋建築に尽力された事により、東京大学工学部前庭にコンドルの銅像が建っております。

後に 建築設計事務所を開設し、多くの財界関係者の邸宅や財閥関係の諸施設なども設計し、

数多くの名建築を残しております。

鹿鳴館、岩崎久弥(現司法研修所)、上野博物館(東京国立博物館)、 三田綱町三井倶楽部、ニコライ堂(東京復活大聖堂)、 その他、 財閥の邸や施設等を多く設計しています。

港区三田綱町 三井倶楽部

 

日本文化にも深い関心を示して、また日本人を妻とし、日本画家の雅号を持ち、長く在住し、  大正9年東京で没しております。

 

その中で、 東京府麹町平河町5丁目のスクリバ邸も明治29年1896年 コンドルの作品の一つでありました。(建物は現存してません。)

ジョサイア コンドルの画集 建築画報社より


北軽井沢一匡邑と黒須老博士

 

大正末期に東京帝国大学出身の学者が集まって、北軽井沢に約5千坪の広大な土地に共同の

村を形成し、当時、一匡邑と称して10数軒の粗末な別荘が建てられていたという。村の中央に細い川が流れて、村の入り口の一番近いところに黒須巳之吉博士の小さな別荘があって、毎年、夏になると家、族とともに、避暑に訪れていた。この小さな黒須山荘は玄関も雨戸もなく、土間に面して二間の板の上に“ゴザ”を引いた質素な部屋であった。当時はここで、夏の一時期、美しく静かに流れる小川を中心に共同生活が繰り返されていた。

時が少しずつ流れ、別荘地を訪れる世代も徐々に変わり、人々も変わってゆく。また、周囲の環境も変化し、特に浅間高原一帯の開発は急速で大きなビルやホテルが建設され始めた。その結果、村の中央を流れていた小川は段々と水嵩が減り、以前の水量の十分の一にも減ってしまった。

川の上流で巨大な建物が川みずを占拠してしまい、もはや村を潤すきれいな水はなくなってしまった。(大学村五十年誌 北軽井沢大学村組合、小林 勇氏参照)

岩波書店の社長会長であった小林 勇氏は北軽井沢で大学村の別荘を訪れて、そのとき懇意にしていた黒須老博士の山荘に訪問し、一匡邑のクルミの木のことについて、氏の随筆 山中獨膳の中で書いております。クルミの木はここの地域ではたくさん見られるが、クルミの実は村の管理人が冬の野生リスのために保存しておくのだという。

 

 

 

 

 

歴史

“一匡”の意味 イッキョウ  天下をただし、治む

論語の一節“天下一匡”国を一つに正し、治める、から採ったといわれる。

一匡邑の設立

村の構想デザイン 西村伊作 大正デモクラシー期を代表する文化人で東京の文化学院創立者

軽井沢のルヴァン美術館はこの学院の建物を復元したもの

 

 

 

 

 

一匡邑と大学村

一匡邑は大正12年東京帝国大学関係者

大正2年旧一高、東京帝国大学の同窓生らによって“一匡社”が作られ同人誌“社会と国家”を発行していた

大正11年家族の保養目的に別荘地を探していた

大正12年草軽電鉄から1万坪の土地を購入、共有の資産として一匡邑として、個々に11戸の山荘をたてた。

大学村は昭和3年、法政大学関係者によって開村された。

 

 

 

地理 浅間山の麓の標高1000~1400mの高原地帯

県所在地 群馬県吾妻郡応桑村北軽井沢

 現在     吾妻郡長野原町大字

 

北軽井沢は以前 地蔵川地域であった、 1918(大正7年) 新軽井沢――草津温泉の

草軽電気鉄道があり、現在の北軽井沢の停車駅跡に“地蔵川駅”があった

 

 

 

 

 

 

 

 

北軽井沢マップ

高原風景

一匡邑の位置は軽井沢からロマンス街道146号線を下り、北軽井沢十字路交差点を左方に

曲がり、地蔵川を越え、桜岩地蔵尊を通過した左手に邑がある。

当時の写真      

 

 

黒須山荘は邑の入り口近く、小さい山荘で玄関も雨戸もない、土間兼居間に手作り椅子と

テーブルがあり、その隅に炊事道具が置いてあった。

 

現在の別荘地写真